著者
川島 重成
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.45, pp.1-25, 2014-03

ソポクレスの悲劇『オイディプス王』(前429 年頃)と『コロノスのオイディプス』(前406 年、ただし前401 年上演)において、オイディプスは<時>をどのように生きたか。 『オイディプス王』1213-1215 行を、筆者はKamerbeek の注解に示唆されて、岡道男訳を修正して、次のように訳する。望まぬあなたを見出した、すべてを見ている<時>が、生む者と生まれる者が等しい結婚ならぬ結婚を(<時>は)かねてより裁いてきたのだ。これはオイディプスが自らの真実を知って走り去った直後、コロスがうたう歌の一節である。オイディプスがこのドラマ以前(の<時>)に犯し、知らずしてその中に生きてきた穢れを、<時>がここで暴露した。一方<時>はオイディプスを、「かねてより」、つまり彼が「結婚ならぬ結婚」という無秩序に陥って以来、「裁いてきた」と解せる。ただオイディプスはそのことに気付いていなかった。それをこのドラマの中で気付かされたのである。この「発見」を、いわば<時>の行為として言い換えたのが、「[……]あなたを見出した、すべてを見ている<時>が」である。詩人はオイディプスの自己発見がそのまま<時>による発見でもあると見ている。ここに人間ドラマが同時に神的ドラマであるギリシア悲劇の真骨頂がある。 『コロノスのオイディプス』の冒頭、娘アンティゴネに手を引かれて登場する盲目の老オイディプスは、次のように言う。「わたしには、ひとつには度重なる苦労が、また長い伴侶の歳月が、それにさらに加えて/持って生れた貴い天性が、辛抱ということを教えてくれる」(引地正俊訳)。かつて<時>がオイディプスの真実を「見出した」。そのとき以来の彼の歩みは、その<時>=運命を伴侶とする新しい生であった。上の引用で「辛抱」と訳されているギリシア語(ステルゲイン)は「運命の甘受」を含意する。この老オイディプスは、その流浪の果てに、ついに彼の生涯の終りを託することのできる高貴な人物、アテナイ王テセウスに出会い、<時>と歩みをともにしてきた者の権威によって、「万物を征服する<時>」の法則を語り聞かせる(607-620)。そして彼の最期を知らせる雷鳴が轟くなか、人間の、とりわけ政治的世界の常である「ヒュブリス」(高慢)に陥らないようにとの誡めを語る。このソポクレスの遺作悲劇が創作されていたとき、アテナイはペロポネソス戦争の末期、スパルタの軍門に下る敗戦前夜にあった。ソポクレスがオイディプスとテセウスの美しい信頼関係によって象徴させたアテナイのあるべき姿とは、戦争の帰趨や政治的権力や富の離合集散とは別の世界で成立する、まさに「歳月によって害なわれることなく秘蔵されるべきもの」(1519)、すなわち人類の人文的理想としてのアテナイであった、と解せよう。 人文学の本来の道とは、いわばこのオイディプスの生涯が象徴するものを、私たちの経験として反復することによって獲ちとり、維持されていくべきものであろう。 オイディプスの生涯が象徴する古典ギリシア文化がその指導的役割を終えた紀元後一世紀、同じ地中海世界の片隅に、ヨーロッパ文化のもう一つの源泉となる精神が立ち現れた。本講演では新約聖書からただ一箇所ロマ書8 章18-25 節を取りあげる。そこで語られるパウロの神――万物を虚無に服せしめる神(20節)――は、人間、そして全被造物の視点から見る限り、オイディプスを理不尽にも外から操ったあの<時>=運命と代らないように見える。オイディプスはその<時>とともに歩むことによって、ある意味で彼の運命を克服した。しかしこれは限りなく厳しい道ではなかろうか。一方ロマ書8 章は、万物を虚無に服せしめた創造の神は、同時に万物の救いの希望であると語る(23-25 節)。思うに私たちが今日人文学の未来への希望を語りうるとすれば、パウロの「望みえないのに、なお望む」という、この希望の上に、あのギリシアの理想を生かす道しかないのではなかろうか。これはまた本研究所ICCの創設の理想とも密接に関わっている。
著者
伊藤 亜紀
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.33-50,図巻頭2枚, 2016-03

サルッツォのマンタ城サーラ・バロナーレに描かれた《九人の英雄と九人の女傑》(1420年頃)は、サルッツォ侯爵トンマーゾ3世(1356?-1416年)による教訓的騎士道文学作品『遍歴の騎士』の登場人物である。そのひとり、二本の槍をもつアッシリア女王セミラミスの姿は、ボッカッチョの『名婦伝』(1361-1362年頃)などで伝えられてきた「男勝りの烈女」や「息子と交わった淫婦」という彼女の本質を説明するものではない。 しかしその右隣にいるエティオペの、長い金髪を梳く仕種は、ウァレリウス・マクシムスの『著名言行録』(1世紀)が語る、女王が身繕いの最中にバビロニア陥落の報せを受け、すべてを擲って戦に身を投じたという逸話に合致する。そしてこのセミラミス像は、ギヨーム・ド・マショー『真実の書』写本(1390-1400年頃、フランス国立図書館所蔵ms. fr. 22545)や『遍歴の騎士』写本(1403-1404年、フランス国立図書館所蔵ms. fr. 12559)にもすでに見られる。ジェンティーレは、マンタにおけるセミラミスとエティオペの図像の取り違えは、画家が壁画制作にあたって直接手本にした図に起因すると考えた。一方デベルナルディは、『遍歴の騎士』におけるセミラミスとエティオペの詩節が、本来一続きのものであったとみなし、マンタのセミラミスは実際はアマゾネスのメナリッペ、そしてエティオペこそセミラミスであるとした。たしかにエティオペの皇帝冠や宝玉、そして「青地に三つの金の玉座」という、フランス王家と同じ配色の紋章は、彼女が9人の女傑のなかでも特別な存在であることを示している。さらにアーミンで裏打ちされた黄金の縁取りのマントは、下に着た女性の服を覆い隠し、その男性的気質を強調する役割を果たしている。 ウァレリウス・マクシムスが語り、ボッカッチョが加筆し、そしてフランスの写本挿絵で視覚化された「髪を梳く女傑」は、代々フランスとの政治的な繋がりを強化し、その文化の影響を色濃く受けてきたサルッツォで、再度大規模に描かれた。しかしこの雄々しくも女性としての身嗜みを忘れないというイメージは、必ずしもセミラミスに限定されたわけではなく、15世紀半ばには他の女傑にも共有されることになる。口絵有り。画像低解像度版/graphics in low resolution
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.281-301, 2015-03

スピノザは彼以降の西洋近代哲学の展開に大きな影響を与えた哲学者である。ヒュームの哲学もまたスピノザの影響を受けて成立した体系の一つである。スピノザとヒュームに共通する最大の主題は「自然」である。両者は、倫理を自然によって基礎づけることを哲学の根本的な目的としていた。ヒュームにとってhuman nature とはいわゆる人間本性ではなく、人間に固有の知覚の連合とそれに基づいて成立する現象の総体としての自然を意味する。ヒュームもスピノザも因果の本質が必然性にあると見なしている。ただしスピノザの必然性が理性により認識されるのに対し、ヒュームの必然性は感覚によって感じられるという違いがある。ヒュームとスピノザの体系の共通点と相違点を理解する上でスピノザの「一般的概念(notiones universales)」とヒュームの「一般観念(general ideas)」の関係を考察することが重要である。スピノザは「一般的概念」を第一種認識に属する想像力の働きに基づく人間の誤謬の源泉として批判している。それに対してヒュームはロックの「抽象観念(abstract ideas)」を批判しながら、一般観念に独自の理解を付与している。とりわけヒュームはロックによる抽象観念を、人間精神の有限性を根拠として批判しており、この点でヒュームとスピノザは共通の認識に基づいている。スピノザは一般的概念を理性による「共通概念(notiones communes)」によって克服し、十全な認識としての第二種認識へと移行する。それに対してヒュームは一般観念に止まりつつ、一般性の拡大によってより妥当な認識が成立していくという観念の自然な発展の理論を提示する。ヒュームの一般観念は習慣から社会的な慣習へと発展することで単に個人的な主観的認識に止まるものではなくなる。スピノザもヒュームもそれぞれの哲学によって他者と協働して幸福を達成する筋道を示そうとする。ただし、スピノザが哲学的認識による理性的主体自身の救いを目的とするのに対してヒュームは一般的認識の成立に基づく共同体全体の安定を目的としている。安定した共同体は富と学芸を生み出し、人間性そのものを発展させる。スピノザとは対照的にヒュームにおいて個人の救いは、個人の理性による哲学的認識にではなく共同体全体の力に委ねられるのである。
著者
吉馴 明子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.139-167, 2016-12

昨年筆者は、日清戦争論を「義戦論」の変容を追う形でまとめたが、今回は日露戦争論について植村正久の非「非戦論」の内容を検証する形でまとめることにした。当時の新聞紙上で日露開戦を巡って、非戦論と主戦論が競うように発表され、キリスト教世界でも、内村鑑三の「非戦論」が出ると同時に、海老名弾正のように日本の帝国膨張をキリスト教的博愛の精神を以て弁証する「聖戦論」的な主張が広まった。このような状況であればこそ、現代の研究者は日露戦争論を「非戦論」と「主戦論」として概括したと考えられる。植村もしばしば主戦論者といわれてきたが、本稿では『福音新報』の記事によって、彼が「非戦」論を非として、国際関係どう捉えたか、戦争、文明、国家をどう捉え、これらをキリスト信仰においてどのように統括的に考えようとしたかを追究してみた。 日清、日露の戦間期に、イエスの十字架に「正義は敗れて興り、不義は勝ちて滅ぶ」とのメッセージを受け取った内村鑑三は、米西戦争とボーア戦争を人類の救済という観点から捉え、ボーアにこそ「贖罪史」の本質が現れていると考えた。ここから日露戦争を見て彼は「非戦論」を説くようになった。 植村正久の場合は、ボーアの抵抗に「自由」実現への希求を見るとともに、国際関係は軍事力・経済力が物をいうとの認識を持った。日露開戦期のアジア情勢についても、ロシア、中国、日本の力関係をリアルに見ている。その意味で日露開戦は不可避とし、国家の一員として戦争に参加すべしと「非戦論」はとらない。しかし、彼の願いは、戦争が人間の自立の促進や社会革新を進めることに役立つことにある。ここに、植村特有の日露戦争論が生み出される。 彼は、白色対黄色、ヨーロッパ対アジア、キリスト教対異教といった対立軸を以ての日本を攻撃する「黄禍論」に批判を加えていくうちに、大きく東洋主義のリストを作り上げた。帝王の威力重きに過ぐる。君主専制。人格の観念薄く、其の価値軽き。神てふ観念低く、人類を礼拝する。夫婦の道明かならず、妻妾を擁して愧づることを知らざる。命の意義に深く通ぜず、自殺を罪悪と見做すこと能はざる、といった諸点である。これを矯正するのは、「開国の精神を振起」することによる。それは、「維新の改革」において「士の常職を解いて四民同等の制を定め」たことから始まり、個人主義の確立、立憲自治の種子となった「精神」である。従って、「自由立憲の制度を樹立し、平民主義を拡張」するなど、「西欧文明の真髄と同化し、深く基督教の精神を吸収して、世界に特色ある文明を現出」することが、日本の使命とされる。 今ひとつ、植村はこの四民同等の導入を、ナポレオン三世率いるフランスがプロシアに敗れそうになった時に、フランス国民が共和政治を組織して、「国民一団となって国家と共に亡びんとする」愛国精神に範を取って考えている点に着目したい。ここに立憲政体は「国は民の為に存し民は国の為に存する」という精神に基づいて理解されることになった。単に忠愛の心厚き」によるのではない。それゆえ、一方で「自由を重んじ、権利を尊ぶ」ことを「国民国家」の必須要件とするとともに、兵役に従事し、国家を守る実力を保持することをも「国民国家」の要件とされることになった。 ここに、植村は「国家権力」についてのキリスト教による説明を余儀なくされる。彼も他のキリスト者と同じように、「基督の平和は血の流れる十字架上の平和である」という。ただ、彼が強調するのは、キリストが「十字架に血を流すまで戦ひて罪悪を征服し」「世に勝ちぬ」と勝鬨を挙げられた、ということである。対外戦争を罪悪の征服と等値して語ることができるのかは、大きな問題であろう。ただ、戦死をキリストが罪を贖うための「犠牲」死と等値したのではないことには注意を払っておきたい。 植村がかつて、福沢諭吉の「報国心」に潜む不公平を責めたこと、法然の専修念仏の教えに支えられて勇ましく戦った武士がいたと述べていたことを頭において、植村にとっての「愛国」とはいかなるものであったか、国家権力と主権的個人との関係如何について考えたい。また、これらの課題との関連で植村が尊重した「武士道」がどのようなものであったかをも、次の論考の課題としたい。
著者
ウィルソン リチャード 小笠原 佐江子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-127, 2016-03

A revolutionary ceramic product, one that looked more like a painting than a pot, made its debut in Kyoto in the opening years of the eighteenth century. These rectilinear dishes and trays were decorated with monochrome painting, poetic inscriptions, and personal signatures. The designer and frequently the calligrapher for these works, Ogata Kenzan (1663-1743), understood the codes of poetry, painting, and writing that had evolved in China and Japan. His knowledge was mediated by the reproduction of those codes in contemporary painting and especially in illustrated literature. His products were functional ceramics, which means that these images had now migrated from the tokonoma to the tatami, so to speak; at the same time, the decidedly "non-ceramic" shapes and impromptu painting-poetry provided the work with a performative aura that resonated with the consumers, specifically that segment of the population who, from the 1680s, had begun to learn Chinese and use it in their pastimes. This article is the first of two installments that survey this genre of Kenzan ware, hich the authors call the "gasan" style after the Chinese expression for inscribed aintings, or hua zan. Kenzan-ware gasan ceramics from the Narutaki (1699-1712) and Nijo-Shogoin workshops (1712-mid-18th century) are the focus. Judging from the number of surviving works, the style was remarkably popular, and it came to be mass produced at Shogoin, first under Kenzan himself and then under his adopted son and successor Ogata Ihachi (dates unknown). This installment on Kenzan-ware gasan treats landscape, human figures, and animal subjects. The article begins by reviewing the Chinese locus classicus for the combined arts of poetry, painting, and calligraphy, with special attention to the way in which this synthesis articulated the values of the scholar-official class. A discussion of the appropriation of that tradition in Japan follows. In the data section, surviving works and archaeological specimens are studied in terms of their inscriptions, including sources and meanings, and painted decoration, including styles and lineages. Landscape themes are the most numerous, and they divide into panoramic scenes descended from the Xiao and Xiang river tradition (J: Shosho hakkei) and close-up views of "pavilion landscapes" (J: Rokaku sansui). The former type, which occurs most frequently in Kenzan's first decade of production, features full-length poems and rather detailed painting in the Kano style. The latter type, which is common to Kenzan's later production and also the work of his adopted son Ogata Ihachi, typically features single-line excerpts and highly abbreviated, often amateurish painting. Figural themes constitute the second category. Here too the subject matter is orthodox, drawing from the Muromachi-based line of Chinese "saints and sages" that had become increasingly popularized in the sixteenth and seventeenth centuries. The poetic excerpts for this category are typically couplets, and the painting is either by or in the style of Ogata Korin (1658-1716). This approach is also limited to Kenzan's first decade of production. The last category, animals, makes use of creatures associated with Buddhist or literati values; the wares are inscribed with couplets or one-line excerpts, and most of the painting is quite abbreviated. Wares decorated with animals appear at the end of Kenzan's first decade of production, specifically in association with Korin, but they also appear in later work as well. For all three categories, the poetic inscriptions are taken from the Yuan-dynasty anthology Shixue dacheng (J: Shigaku taisei) and its Ming successor Yuanji huofa (J: Enki kappo). Both of these collections enjoyed considerable popularity in Kenzan's day. In selecting the poems for his pottery Kenzan exhibited a preference for those that had been originally composed as ti hua shi (J: daiga shi), that is, poems that were written upon the viewing of a painting. Those "versed" in the code of gasan could appreciate an experiential quality in such work. Yet, conversely, both the painting and poetry clearly access a well-developed archive of popular reproduction. Additionally, the lofty images of solitary and religious pursuits were now being employed in the decidedly communal and secular spaces of wining and dining. The appeal of Kenzan ware gasan must derive from these incongruities. In any case, with such a literary load Kenzan clearly diverted ceramic appreciation away from the materiality of the object to its "conception" (yi) embodying poetic traditions, thoughts of the maker, and the moment of execution. Assuming that Kenzan ware reached a broad public—which is increasingly validated by urban archaeology—and chose poetic excerpts and themes that would be recognized by that public, the ceramic works also document cultural literacy in the mid-Edo period. They show how an ever-growing consuming class could read and savor selections of poetry from the Tang, Song, Yuan and Ming dynasties together with painting. Basho and Chikamatsu wove the same verses into their haikai and joruri. A plethora of how-to books like Shirin ryozai (Handy materials for the world of poetry; 1684) ensured popular access to these quotations. Until quite recently (see vol. 35 of this journal), the poetry-painting synthesis in Kenzan ware was bypassed by researchers. The authors hope that this article will serve as a reference for understanding Kenzan's distinctive appropriation of the gasan lineage and its reception in the mid-Edo period.
著者
五郎丸 仁美
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.43, pp.77-108, 2012-03

ニーチェ哲学における自由─必然の問題は、超人思想と永遠回帰説の矛盾として最も先鋭化するとされてきたが、一方でツァラトゥストラは自由と必然の一致を歌いあげてもいる。この事態をどのように解釈すべきだろうか。 そこで中期まで遡って、上記の矛盾の前形態と思われる「自由精神」と「自由意志の否定」の共存に関する叙述を追うと、自由─必然が寧ろ常に逆説的相関関係にあることが分かる。まず価値創造の自由へと向かう必然的な衝動というものが存在し、それが覚醒する選ばれし者が自由精神である。自由精神はかの衝動に従ってあらゆる幻想、殊に自由意志という幻想の破壊者となり、一切は必然であると認識するが、それによって新たに罪や後悔、疾しい良心からの自由が拓け、無垢なる軽やかさが近づく。また必然性のうちでも、生命感情の高揚においては自由の感情を享受することが可能であり、この場合の自由は力とほぼ同義で、生を活性化する。必然性の内なる自由の感情は、カオス的世界の必然性を美として肯定しようとする運命愛へと昇華する。 以上の相関性を超人─永遠回帰に置き移すと以下のように解釈できる。即ち、自由精神の子孫として価値創造の自由を獲得する超人へと向かう必然性が永遠回帰の内に組み込まれており、また超人は自由精神による必然性の認識が準備した永遠回帰思想を血肉化していて、その暗黒面に脅かされることがない。超人は罪悪感や自責の念のみならず徒労感からも完全に自由な子供のような遊戯者だからである。最後に、必然性の内で享受される自由の感情は、超人が永遠回帰の内で、その運命を愛することによって生命感情を高揚させ、自由ないし力の感情を存分に満喫する、ということを意味するだろう。 従って超人思想と永遠回帰説は自由と必然として切り結ぶわけではない。 超人が到来してもいつかは再び現在の卑小な人間の時代が回帰するという徒労感が問題なのだ。このため自らの思想である永遠回帰説に躓いてしまうツァラトゥストラは、この教説が孕むこの虚無を克服して一切を差し引きなしで肯定しつつ必然性における自由を謳歌するという超人の境地を、知的憧憬によって先取し、生成の必然性を戯れとして美化した仮象世界のうちではあれ、自由と必然の一致をリアルに感得していたと考えられるのである。
著者
川島 重成
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.43, pp.51-75, 2012-03

『イリアス』第6 歌におけるグラウコスとディオメデスの出会い(一騎討ちならぬ一騎討ち)のエピソード(119-236)は、さまざまな解釈上の問題を含む。本稿はそれらの諸問題、とりわけグラウコスの死生観をめぐる一考察である。 ディオメデスはギリシア勢の名だたる英雄であるのに対して、トロイア勢に付くグラウコスはほとんど無名の若者である。因果応報の戒めを語りつつ一騎討ちを挑んできたディオメデスに対して、グラウコスは「人の世は木の葉のさまに等しい」との全く別の人生観で応じ、武勇における彼我の圧倒的な差異を相対化する。グラウコスは、ディオメデスの強力な威嚇に巧妙なずらしのレトリックで対峙し、同時にこの一騎討ちを実質的に人生観のアゴーン(競いあい)と化す。この解釈の裏付けとして、本稿は第6 歌150-1 行について新しい読み方を提示し、kai. tau/ta(150)は従来の解釈・翻訳と相違して、「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観を指すとする。この人生観・死生観のアゴーンにおいて、グラウコスはディオメデスと堂々とわたりあい、むしろ優位に立つのである。 グラウコスは彼の死生観の例証として60 行にわたって己が家系の物語(151-211)を語るが、ベレロポンテスの生涯がそのほとんどの部分(155-205)を占める。神々がベレロポンテスに与えた美しさと雄々しさが彼の禍に転じる。アルゴス王の妃が彼への恋に狂い、そのため彼はアルゴスからリュキエに追放されるが、神々の助けを得て、さまざまな試練を克服し、逆にリュキエ王の娘を娶り、王権の半ばを恵与される。この彼も悲惨な後半生を送らされる。孤独に荒野をさまようベレロポンテス──この彼の生涯こそ「人の世の木の葉のさまに等しい」有為転変の運命の典型であった。 グラウコスが語るベレロポンテスの物語の素材となった民話においては、天馬ペガソスとの結びつきがその中心にあった。それはベレロポンテスが天馬ペガソスに乗って天に飛翔し、そのヒュブリスによって突き落とされたとするものであった。しかしグラウコスはこのエピソードに言及することを意識的に避けた、と解される。グラウコスの死生観は、それ自体ホメロスによる宗教的洞察であり、アポロン的宗教性の表白である。ホメロスは第21 歌でアポロンに同様の「木の葉に等しい」人間のはかなさを語らせている(462-7)。 グラウコスが語り終えると、ディオメデスは彼の死生観そのものには何の関心も示さず、二人が実は先祖伝来の「クセニア」(主客友好関係)で結ばれる者同士であったとの発見を語り、そのしるしとしての贈り物の交換を提案する。しかし本来は互恵性の原則によって成り立つ筈のこの贈り物の交換は、ゼウスの介入でグラウコスの判断が狂わされたことにより、グラウコスにとって全く屈辱的ともいえる奇妙な形で終る。ここにホメロスのユーモアが窺えよう。これはかの死生観のアゴーンにおけるグラウコスの「勝利」(と期待されていたもの)に、もう一度どんでんがえしをもたらす。これもまた「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観を例証するものであった。
著者
三井 礼子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.103-138, 2016-12

本稿ではジョン・トーランドの反教権主義をテーマに、主要著作『秘義なきキリスト教』(1696年)と『セリーナへの手紙』(1704年)を宗教的、自然学的観点から考察し、『自由イングランド』(1701年)と『自由の擁護』(1702年)を政治的観点から考察することを目的とした。彼が何をどのように批判・論駁したのか、そして論敵からどんな批判・攻撃を受けたかを明らかにすることで、彼が迫害と弾圧のために曖昧あるいは戦略的な言葉でしか語りえなかった事柄も含めて、自由思想家あるいは理神論者という呼称が現実の社会においてどのような思想を体現していたかを示そうとした。「隷属と専制的権力の公然たる敵」であると自負するトーランドは、既成キリスト教の宗教的権力は魂不滅の教理を基盤とした聖職者による宗教の独占形態をもたらし、専制政体の国家的権力は王権神授説を基盤とした専制君主による国家の独占形態をもたらしたと主張した。この二大権力を打破するために、トーランドは、本来の宗教とは徳と神についての正しい観念から成り、このような真理を理解力にもっとも乏しい者にも容易にわかるように明らかにし、迷信的な見解と慣習を一掃することをめざすものであるにもかかわらず、異教主義に汚染されたイングランド国教会はこのような神の教えを軽んじ、理解不能な三位一体を今なお「秘義」として温存・擁護し、「秘義」信仰の強要とそれを拒む者に対する弾圧・迫害を行っていると糾弾し、本来のキリスト教の教理には理性に反するものも、理性を超えるものもないと主張する著作を公けにした。また、王政復古後にもたらされた専制政体の復活を阻止し名誉革命の原理を堅持・推進する「コモンウェルスマン」として、統治者の権力は社会から与えられたゆえに社会に対して責任を負う義務があると主張して、王権神授説と王権への絶対服従を拒絶した。さらに、魂不滅の教理に捕らわれた人々の呪縛を解くために、「死すべき人間」の真の姿を唯物論的物質論によって提示し、聖職者の術策から解放された自由で理性を備えた人間として生きることをメッセージに託した。これが自由思想家ジョン・トーランドの宗教的・国家的専制権力に対する果敢な挑戦であった。
著者
野本 和幸
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.55-101, 2016-12

フレーゲは、第一に、「数とは何か」という問いに対し、自ら考案した記号言語により、史上初の高階述語論理の公理体系化を達成し、その論理的基礎から、数論全体を論理的に導出しようと試みた。第二に、その体系構成の「予備学」として、日常のドイツ語をいわば「メタ言語」に用い、当の記号言語自身の統語論についてのメタ的説明や、自らの論理的カテゴリー区分(対象と型つきの概念・関係)、意味論的区別(意味と意義等)を解明し、第三に、全欧規模で数学者・論理学者・哲学者と充実した誌上および書簡論争を行った。 以上の論理学・数学基礎論上の仕事に加え、フレーゲは意味と意義の区別をはじめ、現代の意味論・言語哲学の原型を与えた。
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-32, 2016-03

本稿は、ヒューム道徳哲学成立に果たしたバトラーの人間本性概念の意義を検討することを目的とする。バトラーにおいて神による自然の統治と人間の道徳的統治が類比的に扱われている。自然と道徳の統一はヒューム哲学を貫く根本的な主題である。ヒューム道徳哲学は、合理論と道徳感情論の対立また人間本性の道徳性をめぐる性善説と性悪説の対立を時代的背景として成立した。ヒュームはその論争にバトラーが論じた人間本性そのものの解明を目指す立場から決着をつけようとした。この点でバトラーはヒュームが目指した「人間の科学」の成立に重要な手がかりを提供している。本稿で私はバトラーの道徳哲学の基本構造を明らかにし、ヒュームとバトラーの議論の親近性と影響関係を具体的に指摘することで、ヒュームの「人間の自然(本性)」がバトラーの統一的な人間本性の理論を引き継ぐものであることを示す。その過程で両者の理論がともに道徳と自己利益の一致を論証していることが明らかになる。こうして本稿では、ヒュームがバトラーの「習慣」概念を批判的に発展させることで、良心論を中心とするバトラーの神学的道徳論を神と良心の存在を前提としない世俗的道徳論へと転換したことが論じられる。